高知国体

[高知県] 

面積=7104.13km2(全国18位)

人口(1995)=81万6704人(全国45位)

人口密度(1995)=115人/km2(全国43位)

市町村(1997.4)=9市25町19村

県庁所在地=高知市(人口=32万1999人)

県花=ヤマモモ 県木=魚梁瀬スギ 県鳥=ヤイロチョウ

四国の南半部を占め,四国山地を境に愛媛・徳島両県に接し,太平洋に臨む県。室戸岬と足岬が
弓形の土佐湾を抱き,県域は北東〜南西方向に長い。東の東洋町甲浦
(かんのうら)から西の宿毛(すく
も)
市までは,直線距離で約170km,道路里程では約270kmに達する。土佐湾沿岸から四国山地中
の県境まで,ほぼ30〜40kmの幅がある。



[沿革]  現在の高知県は,かつての土佐国全域にあたり,明治維新まで土佐藩(高知藩)24万石
の藩政が続いた。1871年(明治4)廃藩置県に伴い高知藩は高知県に改められた。ついで74年愛媛
県に属していた沖ノ島,鵜来
(うぐる)島,姫島の3島(現,宿毛市)が高知県に移管された。76年高知県
に名東
(みようどう)(旧,阿波国)が編入されたが,80年再び分離され,名東県は徳島県となり,現在
の高知県域が確定した。


[黒潮洗う南国的風土]  沖合を流れる黒潮の影響で,冬季でも土佐湾の海水温が15℃前後あ
り,湾岸一帯にはウバメガシ,ガジュマル,ツバキなどの暖温帯自然林景観がみられる。北には,

風のような四国山地の山なみが連なって北西風を防ぎ,晴天が多く,南東部の室戸岬付近は無霜
地で,土佐湾岸一帯ではほとんど積雪をみない。

一方,梅雨期と秋の台風期には,県域の大部分を占める四国山地を中心に大量の降雨がある。高
知市の年降水量2666mmは日本では多雨地に属するが,とくに山間部では,東部の魚梁瀬
(やなせ)
はじめ3000mmをこす所が多い。四国山地は,瓶ヶ森
(かめがもり)(1897m)をはじめ標高1500mをこえる
峰が多く,ここから南へ中央構造線に並行して走る地質構造に関係して,東西方向に幾重にも山なみ
が並ぶ。中・下流が徳島県域に含まれる吉野川を除くと,四万十
(しまんと)川,仁淀(によど)川,物部(もの
べ)
川,奈半利(なはり)川など多くの河川の全部または大部分の流域が県内の四国山地に含まれ,曲流
峡谷を形成して豊かな水量を土佐湾に注いでいる。

しかし低地は少なく,物部川,国分川,鏡川,仁淀川の各下流低地の総称である高知平野(最も広
義)以外は,松田川下流に宿毛,四万十川下流に中村,新荘川下流に須崎,安芸
(あき)川下流に安芸
などの低地があるにすぎず,このような狭い低地に,古来漁・農村が集中して発達してきた。

  海岸線は大部分が単調で,沈水性の屈曲に富む海岸は中央部の浦戸湾,浦ノ内湾,須崎湾,南西
部の宿毛湾,東部の東洋町甲浦港などに限られ,これら湾内には古くから阪神や九州方面との交易・
連絡港が立地した。

  また長い海岸線は漁業の発達に適し,近海カツオ漁業が盛んで,土佐清水,宇佐(土佐市),室戸な
どの漁港が著名であるが,近時は,室戸をはじめ土佐湾東部の漁港には遠洋マグロ船が多く,南太平
洋をはじめインド洋,大西洋まで出漁している。中世の対明貿易の南海路にあたり,四万十川河口の
下田港(現,中村市)がその寄航地となった点や,1596年(慶長1)のスペイン船サン・フェリペ号浦戸漂
着はじめ異国船の漂着,幕末の中浜万次郎の物語なども含めて,土佐湾が太平洋に大きく開いている
地理的条件は,時代をこえて,土佐の性格にさまざまな影響を与えている。

  一方,県域の大部分を占める四国山地の山間部は,中世以降傾斜地の焼畑による耕地化などで開
発が進展した。温暖多雨な気候に恵まれて,山間部では近世以来林業が盛んで,黒尊
(くろそん)(幡
(はた)),白髪(しらが)(長岡郡),魚梁瀬(安芸郡)に代表されるように,杉,ヒノキなどの生産が藩の
財政をささえてきた。現在も林野率83.7%(1990)は全国第1位で,西南日本有数の国有林をもち,地場
産業として重要である。

とくに,第2次大戦後,仁淀川,吉野川,物部川,奈半利川などの上流部に,早明浦(さめうら),大渡(お
おど)
,永瀬,魚梁瀬などのダムが建設され,最近は豊富な降水を受ける四国の水がめとしても重視され
ている。一方,吉野川と並ぶ四国の大河四万十川は,開発があまり進められず,自然をよく残している
ことで知られる。


[水稲二期作から施設園芸農業へ] かつて著名であった土佐の水稲二期作は大正期以降,高
知平野,安芸平野に普及し,全盛期の1935年前後には県下作付けの1割に達した。しかし,第2次大戦
後しだいに衰退し,とくに稲作減反政策期の1970年代に急減して,現在は物部川下流の香長
(かちよう)
平野の一部にわずかに残るにすぎない。

台風の害を避け,狭小な平野や零細な経営規模を克服するために,土佐では温暖期間や日照時間
の長いことを利用して,労働力を集中的に投下し,単位耕地面積当りの生産性を高めるという農業を行
ってきた。これは現在の県を代表する施設園芸農業にもあてはまり,県平均単位面積当りの生産所得は
全国的に最上位のグループに入っている。

戦前すでに,高知・安芸両平野に海岸砂地利用の促成栽培がみられ,阪神地方へ出荷されていたが,
戦後は,ビニルハウスの普及,京阪神大都市圏の形成と市場の確立,交通条件の整備に伴って,輸送
園芸地域として急速に成長し,近時は平野内部や県西部への拡大も著しい。

キュウリ,ナス,ピーマン,ショウガのほか,メロン,スイカなど作物も多様化し,早稲,二期稲(晩稲)な
どの稲作も含めて,促成,抑制,露地などの栽培が組み合わされた経営がみられる。園芸野菜は年産
800億円(1995)をこえ,米の4倍余を占めている。

ほかに室戸市の早生ビワ,東洋町のポンカン,土佐市,香我美町の土佐ブンタンなど,地方色豊かな
果樹類も特産する。戦後まで焼畑農業のなごりがみられた山間部では,四万十川中・上流部のシイタケ,
仁淀川中・上流部の茶,奈半利川流域のユズなど村おこしに商品作物を導入する傾向がある。

[地場産業中心の鉱工業]  製造業出荷額は全国で沖縄県に次いで下から2番目(1995),就業人口
中の第2次産業人口比も最下位グループに属し,工業は振るわない。その中で,四国山地の資源と結び
ついた近世以来の地場産業が多いことは特徴的である。木材加工のほか,四国山地を中心に産出する
石灰石(年産1500万t程度)は移出もされるが,伝統的な石灰製造業や明治期以降発展した近代セメント
工業も立地させている。

土佐市,伊野町を中心とする製紙業は,山間部のコウゾ,ミツマタを原料として,近世から昭和初頭ま
で藩や県の経済を支えた和紙業が発展し,大正期以降とくに第2次大戦後,機械漉
(す)き製紙に転じた
地場産業として知られる。このほか,浦戸湾岸の造船業,南国市から土佐山田町にかけての土佐打刃
(鎌,林業用なた,包丁など)も藩政期以来の伝統をもつ地場産業である。

昭和10年代に労働力や電力にひかれて立地した紡績,電気化学,鉄鋼業や,戦後に農村とその労働
力を背景に立地した農機具工業などの近代工業もあるが,一般的にその立地集積は進展していない。



 
[高知市]  
高知県のほぼ中央部,土佐湾奥にひろがる高知平野に位置する県庁所在都市。人口
32万1999(1995)。市の中心部は浦戸湾奥の鏡川と,かつては大川であった江ノ口川にはさまれた沖積
低地に位置し,近世の土佐藩の城下町から発達した。

1889年旧城下町の範囲を踏襲して市制。1942年浦戸湾岸部を含む市域の拡大により現市域がほぼ
形成された。第2次大戦で,市街地の大部分を焼失したが,1955年以降の県人口の減少期にも,高知市
への人口集中が進み,市街地の拡大が進行した。現在,住宅地化は鏡川沖積低地のみならず,浦戸湾
岸一帯,国分川以東の高須,大津,介良
(けら)地区にも及ぶ。

都心部は高知城(現,県立公園)を中心に,県庁,市役所をはじめとする官庁,文教地区が隣接し,この
東に中心商店街が連なる。明治末までに開通した土佐電鉄が,桟橋(高知市),伊野(伊野町),後免
(ごめ
ん)
(南国市)の3方面へ通じ,現在まで都市交通機関として機能している。

大正末に,現 JR 土讃線が須崎から通じて高知駅が設置され,土佐電鉄も高知駅と接続するように延
長された。播磨屋橋交差点付近の都心地区への通勤,通学,買物などの流入圏域は,高知平野一円,
さらにその周辺に及び,県商業販売額の3/4は高知市が占めている。

製造業は県出荷額の3割(1995)を高知市が占め,三里(みさと)地区を中心とする浦戸湾南部の造船,臨
港地の潮江
(うしおえ)地区にはセメント,電気化学,東郊大津地区の食品加工,下知(しもじ)地区には機械,
金属などの各種企業がそれぞれ集積している。かつて製紙業などの盛んだった旭地区は,かつてパルプ
廃液公害問題も生じ,衰退している。

1935年全通した国鉄土讃本線(現,JR 土讃線),国道32号,33号,55号,56号線で松山,高松,徳島,
宇和島など四国主要都市と結ばれるほか1998年には四国横断(高速)道も高知市まで延伸された。高知
港からは阪神方面へフェリーが通じる。

南国市にある高知空港へは車で30分の距離にある。主要市街地は,0mを含む低地に立地するため,
古来台風時の水害が多く,近年では1970年,76年に市街地の過半が冠水し,防災のための河川整備が
進められた。市内には,眺望のよい高知城,五台山,筆山や浦戸湾頭の桂浜,種崎などの公園があり,
市民の行楽地や観光拠点となっている。追手筋
(おうてすじ)の日曜市は近世以来の街路市の伝統があり,
市民や観光客でにぎわう。


[高知城下] 土佐国の城下町。古代の高坂郷,中世の大高坂郷に属するこの地は,南北両党が激突
するなど早くから土佐中部の要衝として注目されていたが,浦戸湾奥の低湿地で治水に難があり,1588年
(天正16)ころ大高坂城下町経営に着手した長宗我部元親も失敗,放棄して浦戸へ移転している。

関ヶ原の戦後新領主となった山内一豊は,入国直後より大高坂の故地に新城を築き1603年(慶長8)浦戸
より入城,以後高知は土佐一国を管する山内氏の城下町として幕末に至る。はじめ地形にちなんで河中と書
かれたが,水害を忌み10年高智と改め,のちさらに高知となる。

藩初は南北を鏡川と江ノ口川,東西は木屋橋,桝形の線で限る狭小な地域で,大高坂山上の城を取り囲
む侍町と堀詰の水路をへだて東側に設けられた町人町からなり,後者にみられる山田,新市,種崎,浦戸,
朝倉,弘岡,蓮池の諸町は,周辺の戦国期市場集落吸収の歴史を物語る。その後,東西にそれぞれ新しい
町区(新町,上町)が発達,外側には足軽町が置かれるなど寛文年間(1661‐73)までには城下町の基本形が
成立する。1665年の記録によると,東西28町・南北8町の域内に2618戸(武家433戸,町人2185戸)の家数,
町人町28ヵ町の人口1万7054のうち18種の職人1070人であった。

 藩政後期に入ると,新町や上町では士庶雑居の傾向が強まり,各所に枝町も発達,家数は1804年(文化1)
で4704戸を数え,使者屋橋〜播磨屋橋間掘割りの南北を新都心とする経済都市化が進行する。

上方から阿波または東予を経た往還は,北東の山田橋から城下に入り,松山,大洲,宇和島方面に通ずる
道は町の西端思案橋より発し,浦戸湾の水は堀川をさかのぼり堀詰に至っていた。特権的な町座としては,
唐人町の豆腐,新堀材木町の林産物,納屋堀の海産物などが知られ,酒,灯油その他多くの商品も座株の
対象で,在郷商人の台頭する藩政後期には,1820年(文政3)の商物方限令など城下商業保護策がとられる。

  町政は町奉行の支配下にあり,町方地下役として惣老,町庄屋,老および組頭がおかれ,惣老の地位は
ながく初期豪商櫃屋,播磨屋の独占するところであったが,寛政以降これに平野屋,辰巳屋,土種屋が加わ
っている。

町方自治の議政機関たる町会所は,月3回の寄合を開き,1740年(元文5)以来京町にあり,1816年には10
匁の町会所札を発行した。東西の町区と溝渠をへだててはさまれた中心部は郭中と呼ばれ,城の大手門およ
び南口に近接した家老屋敷以下中老,馬廻,
従組など上・中士層の屋敷域で,南北に与力町,本町筋西詰
には桝形が設けられていた。

災害では1698年(元禄11)の大火で城下全域が灰燼(かいじん)に帰し,1727年(享保12)には高知城も全焼し
た。幕末1853年(嘉永6)の町勢は,武家屋敷1102戸,町屋4069戸,寺院14であるが,明治維新により打撃を
うけ一時的に衰退した。