龍雲閣






              

          者  宮内省(当時)

      開  館  明治42年

      規  模  379u(建築面積)

      総工事費  4,939円17銭(明治42年当時)

          設置目的  皇族方の貴賓舎

          運  営  建築当初は、宮内省所管であったが、現在は独立
            行政法人(前農林水産省)新冠家畜改良センター
            で管理をしており、通常は一般開放しておらず、
            現在は桜まつりのみ一般開放している。

  
           物  狩野探幽の屏風一双、谷文晁の掛け軸、伊藤博文
            の揮毫軸、伊藤博邦公の揮毫額、その他、皇族ご
            使用の家具、食器、馬具など多数





                         沿 革

      この建物は明治41年に客舎(貴賓舎)として建築に着手され
      翌
42年に竣工。当時、牧場は創業後、既に36年。宮内省御料牧
      場となって
20年を経過しており、宮中御料馬の生産並びに北海
      道産馬の改良のほか、日露戦争中は陸軍の要望に応えて軍馬の
      拠出をするなど、皇族をはじめとし多くの方々をお迎えする機
      会は多かったことから、これら貴賓をもてなす客舎の要望はき
      わめて強く、明治
42年に韓国皇太子李良殿下のご臨場が予定地
      され、客舎の実現に拍車をかけました。

            
こうした使用目的から、当然それに応じた格式が建物も各部
      各所で通り入られ、他の建造物とは全く趣を異にした二層の御
      殿造が出来上がりました。
       これが、当時の人々をいかに覚醒しめたかは、当初「凌雲閣
      (りょううんかく)」と名付けられたことからも推察できます。

           
この客舎の使用を調べてみると皇族方の台臨があり、特に二
      代にわたる天皇陛下がそれぞれ皇太子の御時に行啓されている
      ことは、御料牧場とはいえ都から遠く離れた牧場として稀なこ
      とといえます。

            
この豪壮な御殿も老朽化したため昭和47年に新冠種畜牧場、
      起業百年事業の一環として龍雲閣の修復工事を行い今日に至っ
      ておりますが、屋根だけは当時の楢柾葺きに復元する事が出来
      ず、今後の耐久性をも考慮し銅版葺きが採用されました。

            
その後、数多くの名士高官がここに足跡を残されたのですが、
      特に皇族関係者の方々をご来場順に列挙します。


             ご皇室・政府高官のご来歴

      1.韓国皇太子李良殿下
              
明治428月、伊藤博文公爵随従でご臨場、ご視察。
          
2.皇太子殿下(後の大正天皇)
              
明治44年9月8日御着。4日間の滞在中産馬の改良、牧場
        作業全般をご視察。9月
11日ご出門。

          
3.東久邇宮稔彦王殿下
              
大正67月ご臨場、牧場事業の実況を台覧に供す。
      
4.皇太子殿下(後の昭和天皇)

              
大正11720日御着。龍雲閣3日間のご滞在中、放牧馬、
        牧場の状況、牧場施設巡覧、各競馬を台覧。7月
22日ご出
        門。

           
5.澄宮(後の三笠宮)崇仁親王殿下
              
昭和78月22日御着。7日間のご滞在中、場内をつぶさ
        にご視察の上8月
28日ご出門。

           
6.義宮(現常陸宮)正仁親王殿下
              
昭和2885日御着。学習院高等科第3学年在学中、社会
        科見学旅行のためご来場。場内各施設をご視察の上、8月
        6日ご出門。

           
7.三笠宮寛仁親王殿下、同妃殿下
              
昭和621223日ご来場、龍雲閣をご視察。






                           エピソード
          その1
       伊藤博文公については、親子
2代にわたるご来場。博文公に
      ついては明治
428月、韓国皇太子殿下のご案内役でご来場さ
      れ、畳の香りも新しい龍雲閣にご宿泊されたのですが、その折
      り宴席の座興として即興の七言絶句を墨書きされました。

          
一旦、書き上げられた後、一部修正を思いつかれ原稿さなが
      らに不要の字を訂正し、また新たに挿入等をされ、結局、この
      書はご帰京の後、改めて清書をして送ろうということになって、
      持ち帰られることになりました。

        
  さてその帰路、お発ちの馬車が動き出してから、牧場の者が
      馬車を追いかけて、その原書を無理に願って頂戴したと伝えら
      れております。俗に言う虫の知らせでしょうか、
博文公はその
      年ハルピン駅頭でテロの凶弾に倒れその一生を閉じています。
       もし馬車にすがって頂戴しておかなかったら、現存の書は残
      らなかったでしょう。後に表装され、今は重要な記念品として
      保存されています。

           
           
その2
            
伊藤博文公の娘婿に伊藤博邦公という方がおおられましたが、
      大正
116月、このとき宮内省主馬頭の官にあり、牧場を視察
      されました。
       この方は達筆な方でこの折に見事な龍雲閣の
3文字を揮毫さ
      れ、ここで初めて龍雲閣の文字が出て参りましたが、これを契
      機に従来の凌雲閣から現在の龍雲閣へと改められ、龍雲閣の名
      付け親は伊藤博邦公であるとされております。